明治の室次

「カランコロン、カランコロン」まだ夜の明けぬ寒空に下駄の速足、「ガラガラ、ガラガラ」と金輪の大八車が静けさをひびかせ近在の農家が市場へ向かう。この時、内では室次の主が「起きよや庄吉、喜作」と大声がねむりより覚めさせる。間もなくポンプで水をくむモーターのウナリ音、ボイラーに石炭を投入する「ザラザラ」という音、活気ある醤油屋の夜明である。白み出した空に県庁や足羽山の森からカラスが「カアカア」と鳴きながら深谷の山へ、又“お花やお花”と仏檀の花を売る声、仏教王国福井の朝である。戦前の福井の1日が始まり、室次醸造場の活動が始まった。徒弟制度とか年季奉公の17、8人の住込みの蔵人が一心に仕事につくのである。私の幼少の頃のよく思い出す情緒ある福井の夜明けときびしい醸造家の朝である。

私の家は元来から醸造家で私で十四代目、天正元年(1573年)から続く440余年の信用と伝統のある蔵元である。北陸街道 (旧国道)と三国街道の交差点に筋違橋があり、これより南に東別院の門前町として発展した城下の繁華街呉服町があり、北に俵町(現在の田原)俵堅町、寺町と並んでこの附近が、福井城下の交通の要所であり、商工業者の中心でもあった。

当時の地図67619821c256950fd2f37cfaa1530c36江戸時代初期、醤油の近代的な醸造法が確立され日本全国で大量生産が出来るようになった頃、「室屋」の醤油専門の醸造場として、元禄2年(1689年)2月、室屋次左衛門(室屋四代目)が酒の醸造設備を変更し、隣接する現在地(福井市田原)で「室次」を創業した。以来、酒業は「室屋」、醤油業は「室次」の2つの屋号で商売を営んだ。幕末の頃はこうじ、味噌、醤油、酒屋等、室(むろ)を持って居た所を「室屋」と言うところが多くなり、当時の地図にも「室屋」が8軒(室次の分家等含む)、「米屋」が2軒、「俵屋」が2軒と、米俵に関係のある商売が多いので、(呉服町、寺町の地名と同様に)「俵町」と呼ばれて居た(現在は俵→田原)。俵町は坂井平野の米、大豆、小麦と筋違橋をくぐり抜けた芝原用水(当時は福井城下の上水道で水も清く水量も多い)も裏に流れて居り、醸造場に適し又商家、武家屋敷へと販路も近く良い地の利であった。

その後代々業をついで来たが、その間再三再四の大火、福井空襲により記録も燃えたが、九代目に当る亀吉がなかなかの傑物で、明治時代に大いに家業を発展させた。明治35年(1902)3月30日の大火(焼失3182戸)の時も降りしきる火の粉の中で必死になって醤油や味噌の蔵に水をかけ、煙の中から「水を持って来い」の叫び声とその気迫に押され、職人や奉公人も懸命に防火にはげみ蔵を守ったという。(その後7日間煙の為に目が見えなかった)この気迫が室次再建の原動力になったと思う。大火の後、本屋十六間原料倉併せて間口二十二間(40m)の店舗と、焼け残った蔵も合せて土蔵3棟【1棟は巾五間(10m)長さ十二間(23m)、醸造量は約1000石(180000L、30石桶(5400L)~50石桶(9000L)が合計約30個)】が完成した。3000石の醸造量は福井県下最大で、その後十代目の廣、十一代目の亨の時代になりレンガ造りの「室」、水圧機5基、昭和の初に深さ120尺(約40m)の盤抜き井戸(福井では本町の松岡軒についで2番目)ボイラー、大豆の蒸煮缶、火入用の二重釜、諸味の真空輸送、味噌の加熱達醸、アミノ酸分解釜2基、その他近代的醸造設備を業界に先き掛けて完備し、敷地も1000坪に店舗、工場、土蔵5棟(醸造棟4練、製品棟1棟)を有する醸造場となり各地より見学にも見えられた。蔵人も17~18人使い、毎日荷車5台で北は中庄、南は三十八社、東は四ツ居、北野、西は大安寺までも小売の得意先をもち、鯖江、敦賀の連隊や県内外の工場へも納入して居た。この時が室次醸造場の全盛時代になった。

年末には「しまい醤油」といって12月中頃から得意先を一軒残らず配達するので、毎晩夜の12時頃まで新しい樽に焼印を押したり、墨で「室次」と屋号を書き入れたりの忙がしさが続いた。正月も元旦から休む暇もなく年末に仕込んだ「室次独特のハマナ味噌」を全員がお得意先へお年賀として無料で配って歩いた。今でも室次のハマナ味噌とよく年配の方からなつかしく言われて居る。広い間口の2階の軒下に醤油の絞り袋を一面に干したり、秋には漬物用のたくあん大根を一杯に干したりしてそれが却って見事で道行く人が皆ふりかえって見て行く程だった。

8fafd2ebed2bc4d11a9ca811f4080305昭和37年(1962年)にモービル石油株式会社代理店として「株式会社室次」を設立し石油業界にも進出し、皆様に親しまれて居る室次を社名にした。

私の幼少の頃、今もって忘れられない事がある。それは情緒ある豊かな心と、仕事にきびしく、醸造に当っては誠心誠意であたるということである。他の子供が遊んで居る時、私は時々「ムロの手入」「ボイラーの石炭炊き」をイヤイヤ手伝わされ、その時父親祖父から聞いた話しである。つまり地方の造り酒屋と大阪の酒問屋の話で、酒問屋の主人が話しぶりや、態度や、人柄で酒を買ったと言うことで酒によらず醤油も良い醤油を造りたいなら、自分を磨け、醸造にはごまかしはない、誠心誠意がなければならない。その人柄や性格がその味に香り、色に出て来ると言う話しである。

又私がまだ若く田舎の得意先廻りをして居た時、或る古老にめぐり合った。その老人が「あんさんは室次の若かのう」「わしはあんさんで五代にわたる室次のおやじとつき合う事になるのう」と「三代前の人は朝の暗いうちに醤油を桶に入れて、天秤棒でかついで明治橋の上で夜があけるのを待って、夜が明けるとこの深谷に来て醤油を売りに歩いたもんや」「あんさんも若いけどがんばらなあかん」この時程先祖の苦労と得意先の信用を感じたことはなかったし、自分自身のはげましとなった。

きびしい醸造家の1日も終り、夜もふけてアンドンの灯しびの影で醤油の絞り袋をつくろって居る妻のタカに、亀吉は「おタカやあかりを持って来てくれ」と夫婦で搾り倉へ行き、重しの石を棒につるすと醤油がトロトロと流れ出て来る。亀吉はこれを見て「おタカや明日もお茶がわくぞ」と言う。タカもこの言葉に安堵の胸をふくらませてねむりについたとの事だ。静まりかえった蔵に醤油の絞り舟から流れる音だけが、しずかにこだまして居る。『誠心誠意』をもって造られた諸味(もろみ)から調和のとれた醤油がトウートウーと流れ、あたかも創業天正元年の歴史と伝統を含め、信用と信頼を深めながら440年の長い流れの如くひびきつづけている。

室屋十四代目 白崎俊輔 記

 

 

 

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